6.23.2012

コーヒーより人を作れ


移住の歴史を遡ると、労働力としての人の移動が、室町時代にも存在していたという説がある。

それは昔すぎるから、、置いといて・・・


近代の移住の歴史は明治元年1868年に始まった。(鎖国が終わった頃だね。)

今から144年も前に、ハワイへ向けて153人が旅立ったそうな。

それから、ペルーやら、どこやらへと移住は盛んになり、

労働力不足のブラジル政府から打診され、日本人の初移民がブラジルへ渡ったのが、

1908年(明治41年) のことでした。

この移住がホント酷かったそうです。

船代は無料で、少しだけど支度金までもらえたそうで、貧しい農村部の人たちが多かったとのこと。

ブラジル人の大コーヒー農場で、奴隷のように働かされ、支払われる給料は、微々たるものでした。

農場内の売店で、割高な食料や日用品をつけで買いながら生活していたので、借金の方が多くなる始末です。

2,3年頑張れば、大金持って日本に帰れると思っていた出稼ぎの人たちの夢は、いとも簡単に踏みにじられてしまったんだね。

そんで、逃げる人多発。見つかったら死なされる覚悟で夜逃げした。実際に撃ち殺された人もいるんだよね。

移民を募集した日本政府は、そんな現実に知らん顔。

当時の日本の移住政策は、出稼ぎ労働者を送り出すだけで、送り込んだ後は一切放置する棄民政策だったてさ。


そこで!!

日本力行会の永田稠会長と、ブラジル在住のジャーナリスト輪湖俊午郎氏と、すでに移住していた農業技師の北原地価造氏が出会い、協力して、

理想の村を作ろう!!

ってことでアリアンサ村を開くに至ったのであります。

「アリアンサ」
英語で言うとアライアンス。同盟、提携、って意味だね。エンゲージリングって意味もあるらしい。

つまり、「共に手をとって」っていう村を作ろうとしたんだ。

サンパウロから600kmの奥地に、移住者の立場に立った理想を掲げ、定住を目的とした移住地を建設した。

政府や移民会社の力に頼らず、民間運動によって資金を集めた、とっても珍しい移住地なのだ!


1924年(大正13年)最初の移住者を迎えたアリアンサ。

土地の代金を支払う財力があることが条件だった為、裕福で教養のある中産階級の人たちが

入植した。ピアニストやバイオリニスト、神主に牧師、学者や医者も入植してきたらしい。

大正期のキリスト教徒が中心となって開設した村という特徴もあるそうです。

そして、

1926年  

「行け、自由の天地 南米へ」

のポスターを見た、弓場勇氏(19歳)が家族10人(両親や兄弟)を引き連れてアリアンサへやって来たのです。


希望に燃えた若き弓場勇氏は、志を抱く仲間たちと共同農場の建設にとりかかった。

1935年(昭和10年)弓場農場の始まりです。

「ブラジルの処女地に新たな文化創造を!!」という初心のもとに


「祈り、耕し、芸術する」


農場を、今もなお実現させている弓場農場。


かなりのワンマンだったという勇さん。凄いオーラ発していたそうだ。普通の人じゃないってね。もの凄く魅力的な男だったってさ。



そんな彼の理念は徹底していた。



農場員を拘束する規約は一切作らなかった。

入りたい者は誰でも入れたし、出て行きたい者を止めもしなかった。

いかなる理由からも、働かないことを咎められることもなかったそうだ。

それから、

農場では日本語を使うことが絶対だった。だから今も、4世になっても、みんな上手に日本語しゃべっているよ。

普通は、2世、3世、となってくると、日本語しゃべれなくなってくるって。。

そういう点でも弓場は特別だよね。ホント日本みたいなんだから。


そして、お金も流通させなかった。

戦争で混乱し、行き場をなくした人たちが押し寄せ、300人近くの日本人が共同生活し

ていた時も、みんなで働き、みんなでご飯を食べ、給料は無かったそうだ。



1世から4世まで60人くらいが暮らしている現在も、給料もお小遣いもない。

必要な時に貰う。ということらしいけど・・・意味分からんね。

とはいえ、外に働きに行っている人は、多少現金持ってるみたいだけどね。

とにかく個人の財産は持たないということらしい。

なかなか興味深い所でしょ。


そして、もうひとつ。弓場の弓場たる所以。

「芸術する」ということ。勇さんの初心であります。

「処女地の所有は、文化創造によってのみ許されるものである。その文化は芸術することから始まらなければならない」

勇さんはルソーやトルストイに親しみ、思想を育んでいったようだ。

「芸術による人格の解放が農を支えている」という勇さんの信念のもとに、今でも弓場農場は

芸術活動が盛んだ。

1961年に、日本から農場入りした夫婦があった。旦那さんは彫刻家で、奥さんは舞踏家。

その時にできた弓場バレエ団は、日本にも公演に行ったことがあるんだって。もちろん今も練習してたよ!!

最近は若い人が少なくなって、公演するのがちょっと難しくなってきているそうだけどね。

バレエだけじゃなくて、踊りや演劇もやっちゃうのだ!!

更には、

バイオリンやピアノやサックスや・・・弓場のみんなは、何かしらの楽器を演奏できるしね!



結婚式の弓場オーケストラの演奏だよ。

弓場には劇場がある。クリスマスや、なにかイベントの時には、この舞台で演じられるのです。



弓場農場が始まって77年。

今も変わらず、受け継がれている弓場の心。

文化を育て、人を育て続けてきた弓場農場。


弓場農場は特殊なところだと思う。

だけど、

私と同じ、ただの人間が普通に暮らしているんだ。

聖人でも君子でもない。

だから、当然問題も起こる。気に入らない人だっている。みんながみんな大好きな訳じゃないでしょ。

それでも、ひとつの家族として、共に働き、食らい、歌い、踊り、奏で、演じ・・・芸術することで、

浄化されているみたいだね。

知れば知るほどに、分からないことがたくさんになったよ。私の常識など、どんな意味があったのだろう?

弓場農場って、良いとか悪いとか、そんな事は越えてしまっているよね。

簡単には説明できないけど・・・

ざっくり言うとこんな所です。



弓場農場はNHKの取材が入って、2本の番組が作られてた。

「2007 大家族の夢」 「2008祖国と大地」です。弓場の人に言わせると、「作られてる」らしいけどね。私にはオモシロかったです。

それから、「ウルルン滞在記」でサトウエリコって人が来てたのも見せてもらいました。

昔の番組だからもう見られないかな?

これからの話しだと、7月くらいに公開される映画があるよ。

ブラジルの映画だけどね、「汚れた心」っていう邦題らしい。

ブラジル移民の中に、日本は戦争に勝った!と言い張る人たちがいたんだって。

勝ち組 負け組み って分かれて日本人同士が殺しあうまでしてたってさ。信じられないけど・・・

本当にそんなことがあったんだって。

そんなことの話らしいけど、ブラジル人が作ってる映画みたいね。

その映画に、弓場農場の人もちょっと出てるってことで、話題になっておりました。





人を作るって簡単じゃないけど、大事なことなんだなぁ。



長くなりました。どうもありがとう。








2 件のコメント:

  1. tanaka23/6/12

    きっと、理想郷なんでしょうね、その歴史や背景を知らない私には、ピンときません。奥が深そうです。それだけの”社会”を作ったエネルギーはすばらしいと感じます。不思議ですね。

    今年は9月に2週間、イキトスから奥地に行きます。

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  2. tanakaさん

    理想郷だったんだと思います。移住当初の時代を考えると、実に画期的な農場だったことでしょう。
    私にもピンときません・・・。ここで生まれていたら当たり前だったんだろうなぁ、ということがたくさんでした。


    イキトス、9月ですか!いい季節なんでしょうね。奥地って過酷そうだけどどんな所なんでしょう?
    お気をつけて!

    わたしは9月頃日本に帰る予定です。

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